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2020年07月13日
☆長岡紀子詩集『タンバリン打ち鳴らし 踊れ』が7月6日付京都新聞朝刊「詩歌の本棚」で紹介されました。 ☆『子どもへの詩の花束』第6刷出来! こちらからご覧ください。 ☆原圭治エッセイ集『詩の希望、詩の旅』が4月5日付「大阪民主新報」に「詩論、ヒロシマ、遺言ノート 原圭治さんが初のエッセイ集」として紹介されました。 ☆原圭治エッセイ集『詩の希望、詩の旅』が4月24日付「赤旗」の「詩壇」コーナーで紹介されました。 ☆半田信和詩集『たとえば一人のランナーが』大好評につき2刷出来! こちらからご覧ください。

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☆西純子著『絵本 Aya's Tears あやちゃんのひばくたいけん ―あやちゃんの涙を忘れないで』が12月7日付「図書新聞」で紹介されました。

 

 


                      ☆2019年12月7日付け図書新聞より

 

広島への原爆投下を語り継ぐ絵本


『あやちゃんのひばくたいけん ―あやちゃんの涙を忘れないで』
◆西純子 文/鎌倉麻衣 絵


 この本を書いた西純子さんは被爆二世で、広島で被爆した母がつづった文章をもとに物語を書いたそうです。絵本をつくろうと思ったきっかけは、二〇一一年の福島第一原発の事故で、原子力の恐ろしさを知ってほしいという一念から、広島への原爆投下を語り継ぎ、未来の子どもたちに平和の思いを伝える活動を始めました。
 絵本の主人公のあやちゃんは三歳のとき、広島の爆心地から二・三キロのところで被爆しました。お母さんは爆心地から一・五キロのところで被爆し、家に戻ってきたものの、あまりの変わりように、あやちゃんは「お母さんじゃない、怖い」と言って泣き叫んだそうです。
「おかあさん/どこにいるの?/おにいちゃん/たいへんだよ/みんな/たおれているよ/みんな/みずをくれっていってるよ」
 この絵本に収められた言葉です。ちょうどローマ教皇フランシスコが来日し、広島と長崎を訪れて、核廃絶を呼びかける演説を行いました。ローマ教皇は、あやちゃんが経験したような、被爆者のこうした無数の声を背に、メッセージを世界に向けて発したのでした。唯一の被爆国である日本が、このメッセージを足元から無にするわけにはいきません。いまこそこの絵本を開くときです。

                            (2019.10.20刊、B5判21頁・本体1800円)

 

                                             ※図書新聞様の御厚意により転載させていただきました


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☆左子真由美詩集『RINKAKU(輪郭)』の書評が9月14日付「図書新聞」に掲載されました。

 

 


                      ☆2019年9月14日付け図書新聞より

 

私たちを取り囲んでいる
さまざまな「さかいめ」の存在
人が記憶として覚えていることは、ほんの上澄みだ

 

寺田 操


◆左子真由美詩集『RINKAKU(輪郭)』
 2019.7.14刊 A5変型判80頁 本体1800円


 黒の地に白い線画、パウル・クレーの絵のような柔らかい曲線使いのカバー絵(美濃吉昭)の帯に一篇の詩が白字で刻まれていた。
「それは/パンの竃(かまど)の小さな種火/遠い昔に/消し忘れたままの/部屋の灯り/いつまでも/いわれのない懐かしさと/寂しさで/わたしの肩をたたく/愛しいシグナルよ//あなたはだれ?/だれの指?」(「シグナル」)
 ふいに明かりを落とした小さなステージに誘われ、遠い日にライブハウスで聴いたシャンソンを思い出した。一人の詩人が歌うように静かに詩を語っている。初冬のパリ「カフェ・プーシキン」で見た年老いた男女の物語を、パリの路地裏で風船を売る「マリアンヌ」のつぶやきを、戦場の血の記憶を流す「この雨」のことを。
 シャンソンは「三分間のドラマ」といわれる。過ぎてきた日々の陰影を幻燈のように映し出すかと思えば、エスプリの効いた語りを未来へ向けて響かせる。「シグナル」は人生の交差点の信号であると同時に、世界を照らす小さな「徴」ではなかろうか。
「りんごをなぞるように/きみのりんかくをなぞる/ふしぎだ/せかいと/きみとに/さかいめがあるなんて」(「輪郭」)
 目の前にいる誰かの顔をスケッチしているのか、それとも記憶のなかの誰かを思い浮かべて描いているのか、あるいは愛しい人の顔に手を伸ばして皮膚に触れているのか、さまざまな想像をかきたてる詩である。気づかされたのは、過去と未来という時間軸もふくめて、私たちを取り囲んでいるさまざまな事象や関係性についての「さかいめ」の存在である。さかいめ=境界は、明確な輪郭をもって発語可能な対象として出現するわけではない。ぼんやりと、とぎれとぎれにしか姿を現さないし、時には輪郭を溶かし、消してしまうことだってある。厄介なのは人と人とが明確な輪郭を持って関係を結ぶかといえば、そうとはいえないことにある。
「シグナル」と「輪郭」の二篇は、詩集全体のキーワードであると同時に「喩」でもあるのだろう。世界とわたしの、わたしとあなたの、昨日と今日の、今日と明日のつなぎ目。心の襞に覆い隠された記憶のときが、どのようなきっかけで照らしだされるのか。詩集の誕生についての「物語」をたどってみたい。
 記憶がくっきりとした輪郭をもって浮上してきた「ドナウ河の漣」、「ローレライ」、「美しく青きドナウ」に強く惹かれた。どの物語も読み手が、「まるで私の物語のようだ」と郷愁を呼びこむ散文詩だ。ここでは「ドナウ河の漣」を読んでみたい。仕事帰りの電車の窓から見えた、真夏の日暮れ前の虹。車内を見回すと虹を見上げている人などいない。ふいに胸のデッキから懐かしい歌が流れてきた。小学生のころ、若い日の母が台所でよく口ずさんでいたメロディーだ。事業に失敗した父、次々と家族を襲ってくる不幸な出来事。そこだけが「空白」となってしまう弟の死。「モノクロの映画のワンシーンのように頭の隅に残っているだけ」になってしまった家族の生死を、記憶の匣から呼び出したのは、母が歌う声、哀愁を帯びた美しい調べだった。
「それは/いつどうやって/わたしのなかにやってきたのか/だれかがきっと/詩というちいさなたねを/なげいれたにちがいない/どんどんおおきくなって/からだのなかにしずんでいる/おもいおもいいしのようで/はやくでていいてくれとねがうのみ/けれど/ことばというつばさを/うまくつけると/それはかるがるととんでゆく」(「事件」)
 核心をついた作品だ。自己表出を試みても、ぴったりとした「ことばというつばさ」をつけられるとは限らない。ちいさな種がまかれた土地を耕し、土壌を潤し、手塩にかけて育てなければ実は成らない。人が記憶として覚えていることは、ほんの上澄みだ。深層に眠っている澱や、穴ぼこだらけの思い出、眠りからさめない体験などを、発語の縁へそっとひきあげていく、その器こそが詩なのだ。
                                                            (詩人)

 

                                             ※図書新聞様の御厚意により転載させていただきました